2021年 09月 12日
ヴェーダーンタの紹介グループのクラスやビデオ番組 |
ヴェーダーンタは、膨大な言葉からなる聖典ヴェーダの中でも、その結論が明かされている、小さな部分です。ヴェーダの最終部分という意味が、ヴェーダーンタなのです。ヴェーダーンタは、別名、ウパニシャドと呼ばれます。
例えば、バガヴァッドギーターは、マハーバーラタという歴史物語の中の小さな章です。主人公のアルジュナが人として成熟し、避けようのない大きな戦争の中に置かれて、彼の混乱があらわになりました。立ち上がる力も失うほど、自分自身の考えをどうすることもできず、座り込んでしまいました。そして、目の前にいた先生、クリシュナに助けを求めます。ここから、バガヴァッドギーターという、ヴェーダーンタを教える章がはじまります。こうして、ヴェーダーンタがはじまるには、いつも、それを学ぶにふさわしい生徒と先生の出会いがあります。
ヴェーダーンタのメイントピックがはじまる前の部分、つまり、生徒の準備ができるまでの話題を、「プルシャ・アルタの分析」と呼びます。 プルシャとは「人」。アルタとは求められる価値のあるもの。つまり、人によって求められる価値のあるものをプルシャ・アルタと言います。
権力や富や名声など、人は、安心や喜びを求めて生きています。人によって、さまざまなものを求めているように見えるけれども、よくよく見てみると、本当は、たったひとつのゴールしかありません。人は、モークシャと呼ばれる自由を求めています。その自由こそが「私こそがイーシュワラ」の知識によって得る事のできる自由なのです。
ヴェーダーンタの宇宙観では、宇宙全体がひとつの生き物で、イーシュワラと呼ばれます。あなたは、「私が生きているし、あなたも生きいるし、周りの動物たちも生きているし」とは言えません。あなたを含む全体宇宙が、唯一の生き物なのです。本当は、その全体宇宙が「人」という意味で、そのたったひとりの人が、生きとし生ける物として、ただ分かれて見えています。たとえて言えば、夢の中に、ボスと、ボスの言葉に言い訳している部下の自分がいるとすれば、その両方が記憶です。目が覚めると、とっくの昔にやめてしまった会社の夢だったりするのですから。そんなふうに、夢の中でも自分を含めてたくさんの登場人物が現れますが、夢全体がひとりのあなたの現れた世界なのです。ひとりのあなたが、夢を見ているときたくさんの登場人物に分かれて見えていました。目覚めたとき、過去の記憶はひとりのあなたの中に溶け込んで消えてゆきます。規模は異なっていても、世界は夢に似ていて、世界とは、たった一人のあなたが、あなたを含む生きとし生けるものとして現れている見せかけの姿なのです。ですから、ヴェーダーンタは「あなたこそがイーシュワラである」と言います。ただ言うだけではなくて、なぜそうなのかを多くの方法論を使って教え、あなたにその自己証明を起こす、知識の道具がヴェーダーンタなのです。
しかし、この知識が理解されるためには、その前に、興味を持つためには、ある程度の成熟した考えの人でなくてはなりません。まず、生きた宇宙、イーシュワラを認める考えの成熟こそが必要です。イーシュワラの現れている姿、つまり、宇宙全体はひとつの完全な秩序法則です。イーシュワラは自らの完全なる法則、全知によって、この見事な全体世界を編み上げながら、自らが現れ続けています。
「これだけを聞いて、それならイーシュワラを認めるよ。宇宙が生きているんだよね」と思い込むことは意味がありません。それは考えの成熟ではありません。「5+3=100ー92」を、そうに違いないと思い込むことや信じることに意味がないのと同じです。人は、食べ方や、働き方といった生き方の中で、何が良い事すべき事で、何が良くない事すべきでない事かを知っています。自分も騙されたくはないし、周りの誰もが騙されたくはない事をしっています。自分も傷つきたくはないし、周りの皆も同じです。自分も優しくされたいし、周りの生きとし生けるもの優しくされたいに違いありません。私たちはそれを知っています。知っているのに、その知っている自分に自分が従うとは限りません。まるで別の価値をもった自分がいるようなのです。その証拠に、泥棒だってこっそり夜に忍び込みます。わずかなお金を得るために、すべきでない事を知りながら、する人がいるのはなぜでしょう? いろいろな事情があるとはいえ、突き詰めると、どうでもいいじゃんの態度にはじまって、無知がそれを可能にしています。
その無知は、聖典ヴェーダーンタを学びはじめて、やっと落とすことのできる無知なのです。「私こそがイーシュワラである」というヴェーダーンタの最後の結論は、ある程度その無知が落ちて、全体の人、イーシュワラとのハーモニーを生きる喜びを知った人、つまり、成熟した人にだけに理解できる結論なのです。ヴェーダーンタは、純粋に「あなたこそがイーシュワラ」の知識とそれを明かす教えだけを言いますが、その知識をゴールとできることだけですら、大きな安心を生むと教えています。ですから、そのゴールに向かってイーシュワラとのハーモニーを選ぶ練習の生き方、人の成熟を促す生き方、ヨーガについても語っています。
この意味で、ヴェーダーンタの教えは、たいていが物語になっています。 つまり、登場人物がいて、その主人公の成熟の道のりが教えの一部です。自分自身の無知ゆえに、ついに、「私っていったい何をしたいんだろう?」、「私って、何だろう?」、「どこに向かているのだろう?」と、自分の根っこにある混乱に気づくまでのお話があります。物語の中では、そこからヴェーダーンタの教えがはじまります。
例えば、バガヴァッドギーターは、マハーバーラタという歴史物語の中の小さな章です。主人公のアルジュナが人として成熟し、避けようのない大きな戦争の中に置かれて、彼の混乱があらわになりました。立ち上がる力も失うほど、自分自身の考えをどうすることもできず、座り込んでしまいました。そして、目の前にいた先生、クリシュナに助けを求めます。ここから、バガヴァッドギーターという、ヴェーダーンタを教える章がはじまります。こうして、ヴェーダーンタがはじまるには、いつも、それを学ぶにふさわしい生徒と先生の出会いがあります。
ヴェーダーンタのメイントピックがはじまる前の部分、つまり、生徒の準備ができるまでの話題を、「プルシャ・アルタの分析」と呼びます。 プルシャとは「人」。アルタとは求められる価値のあるもの。つまり、人によって求められる価値のあるものをプルシャ・アルタと言います。
権力や富や名声など、人は、安心や喜びを求めて生きています。人によって、さまざまなものを求めているように見えるけれども、よくよく見てみると、本当は、たったひとつのゴールしかありません。人は、モークシャと呼ばれる自由を求めています。その自由こそが「私こそがイーシュワラ」の知識によって得る事のできる自由なのです。
どのようなヴェーダーンタのクラスも、先生は、まず、この「プルシャ・アルタ」のお話からはじめます。学んで来た人も、自分自身をはっきりさせるために何度も何度も耳を傾けます。また、この学びがはじめての人は、プルシャ・アルタの話題から「ヴェーダーンタとは何か?」を勉強してみましょう。
勉強の方法は、ホームページの「クラス 」 で紹介している3つがあります。
A)京都のセンターの教室で、
B)インターネットビデオ通話(ZOOM)で
C)クラス、キャンプの録画ビデオ番組で
現在ご利用できるC)は、「ヴェーダーンタって何?」「波と海のお話し」「Introduction to Vedanta」「スピリチュアルヘリテージ52話」「スワミジカレンダーのクラス」などがありますので、はじめての方は、ビデオ番組や、開催中のクラスを組み合わせて、勉強の始め方をお話ししますので、「ZOOMインタヴューの日時予約フォーム」にて、「初めてなので、学び始め方を相談したい」など内容を書いて、送信してください。
by vedantajapan
| 2021-09-12 13:51
| ●ビデオ番組